日本のコーヒー文化を開花させたブラジル産コーヒー・ブラジル移民事業の舞台裏 18世紀にフランス領ギニアからもたらされ栽培が始まったブラジルたコーヒーは、19世に入ると南部のサンパウロ州やミナスジェライス州にまで拡がり、奴隷を労働力とした大規模なプランテーションが多数建設され、生産量は世界の8割を占めるまでに増加していました。1888年に奴隷制が廃止されると奴隷に代わる新たな労働力としてイタリアを中心としたヨーロッパ移民を受け入れていましたが、その劣悪な労働環境からイタリア政府は1902年に渡航を禁止し、ブラジルの生産者は新たな労働力を確保する必要にせまられていました。
一方、同時期のの日本では、日露戦争(1904年~1905年)に辛くも勝利したものの国内経済は疲弊し不況の真っ只中にあり、失業対策として海外への移民事業が国家的プロジェクトで遂行されていました。ところが、これまで主な移民先であったアメリカやカナダ、オーストラリアで日本人排斥の風潮が高まり、移民の受け入れを制限したため、それに代わる移民先としてブラジルが有望視されるようになりました。
そして、後の世に「ブラジル移民の父」と評される皇国植民会社社長の水野龍は1908年(明治41年)4月28日、第一回の移民船「笠戸丸」を781名の日本人を乗せて神戸港からサンパウロへ州のサントス港へ向けて出港させます。このとき海を渡った移民のうち3分の1を超える325人が沖縄県出身者で、独身者の移民は認められていなかったため見ず知らずの若者が形式上の夫婦(構成家族)として渡るケースも多かったようです。
彼らの多くはコーヒー農園での労働に従事しましたが、もともと奴隷解放後の労働者不足を補う目的で導入されていたため、実態は先のイタリア人と同様に奴隷に等しい扱いを受けることになりました。その環境は劣悪で、寝泊まりする家屋は家具も床板のない粗末な小屋で、労働時には常に監視が付き、マラリアにかかり命を落とす人もいました。当初は数年間の契約労働者として働き、一旗揚げたのちに帰国するつもりでしたが、賃金も低く(1日90銭にも満たなかった)生活は困窮し帰国することさえできず、日系移民の間ではこの移民計画を「棄民」(日本に棄てられた民)として揶揄する声もあがりました。
結果的に笠戸丸で移民した者のうち当初割り振られた農園に留まったのはわずか4分の1のみで、そのほかは自分で農地を開拓したり、新たに商売をはじめる者、隣のリオ・デ・ジャネイロ州や隣国のアルゼンチンへ向かう者などもいました(この定着率の悪さが農園の恒常的な労働力不足を招き、その後も日系移民を送り続ける要因ともなった)。
・水野龍が手にしたブラジルコーヒー 最初に海を渡ったブラジル移民は様々な困難を乗り越えなくてはなりませんでしたが、受け入れたブラジル側からみれば彼らが貴重な労働力であったことには違いなく、サンパウロ州政府は水野の功績を称え、1910年(明治43年)10月11日「日本に於けるブラジル珈琲宣伝に関する契約」を締結します。
契約では、香山六郎の回想録によると「サンパウロ州政府がコーヒーを日本で宣伝するため、農務局が毎年向こう五年間コーヒー三百俵を無償で水野氏に提供するから、水野氏は東京、大阪、神戸、京都の四都市にパウリスタ式珈琲店を開設してその宣伝にあたることに契約成ったのだった」とれています。この契約は実際には期間・輸入量は修正され、契約期間も1923年(大正12年)まで延長されています。
上述のような一見すると気前の良さそうにみえる契約を交わしたサンパウロ州政府ですが、その裏には切実な事情がありました。水野が移民船を送った20世紀初頭は、中米、アジアでも生産量が増加し、くわえて第一次世界大戦前夜のヨーロッパではコーヒーの輸入を控え得るようになっていたため、世界的に供給過剰となりコーヒーの取引価格の下落をまねいていた時期でもありました。そのような状況のなかでもブラジル政府は減産政策をとらず、生産者を保護するため1906年に価格維持政策を打ち出し余剰コーヒーを一定価格で買い取り国際価格を維持するように努め、1914年に開戦した第一次世界大戦への参加を条件にアメリカやフランスへコーヒーを売却するなどして在庫を捌くことに力を注いでいました。
サンパウロ州が水野に無償でコーヒーを提供するに至ったのは、新たなコーヒーの輸出先を探すことが急務となるなかで、サンパウロ州政府としても日本を新たなコーヒー消費国として育て市場開拓しようという投資的な目論みが含まれていたのです。
・「カフェーパウリスタ」創業 水野はサンパウロ州から受け取ることになったこのコーヒーを「補助珈琲」と称し、大隈重信の力添えも得て(当初は輸入の許可が下りなかった)契約に基づき1910年(明治43年)合資会社「カフェーパウリスタ」(パウリスタとは「サンパウロっ子」という意味)を設立します。そして、翌1911年(明治44年)12月12日銀座店が開店したほか、横浜、大阪、名古屋をはじめ、北は札幌、南は福岡など全国各地、海外では上海にまで展開し、最終的には23店舗、正社員200人、従業員2,000人を抱える日本初の一大コーヒーチェーンに成長させました。(1号店は1911年6月25日に開店した大阪府箕面店であるが、1年余りで閉店している)。
ところで、日本初となる喫茶店は水野がカフェーパウリスタを設立するよりも22年前に既に東京上野に誕生していました。「可否茶館」(かひさかん)と呼ばれるその店は1888年(明治21年)に鄭永慶が、パリの文芸家が集うサロンを模して設立し、コーヒーだけではなくワインやタバコも提供し、新聞・雑誌各紙を備え、ビリヤードなどの娯楽設備やシャワー室まで併設していました。
ところが、西洋文化にまだ馴染みのない当時の庶民には時代を先取りしすぎており、そばが八厘から一銭くらいの時代にコーヒー1杯が一銭五厘(ミルクコーヒーは二銭)と高価であったため、5年も経たないうちに閉店に追い込まれていました。
それから20年ほど経ち、水野が「カフェーパウリスタ」を設立した明治末期には、明治維新後から国を挙げて推し進められてきた「文明開化」がようやく成熟し、庶民の間にも「西洋」というものが身近に感じられる時代が到来していました。産業の工業化によって社会に新たに労働者層が生まれ、中産階級の人口が増加し、都市の発展によって人々のライフスタイルも大きく変化していました。それとともに都市文化も芽生え、食卓には洋食が並ぶようになり、パンやケーキなどの洋菓子が口に入りやすくなったことで庶民の味覚も変化し、コーヒーの苦味も受け入れやすくなっていました。年間のコーヒー輸入量を見ても1912年(明治45年)までは100トンにも満たなかっのに対し、1913年以降は飛躍的に増加し1926年(大正13年)には10倍を超えて1,057トンとなっていることから、この時期にコーヒーが日本人に受け入れられるようになっていったことを窺わせます。
1911年(明治44年)に開店した銀座店は、白亜の三階建ての建物で、西洋の雰囲気を醸し出す内装、海軍士官の白い制服を着た少年が給仕をおこない、コーヒーの価格は当時うどん・そばが1杯3~4銭の時代にあって1杯5銭(ドーナツ付きであったともいわれる)という庶民にも手が届く価格で提供されていました。水野は開店時に、「今日皆様に供する珈琲は日本移民の労苦がもたらした収穫物で、この一杯には、その汗の結晶が浸け込んでいる。準国産品ともいえる珈琲を普及するために、是非ご協力をいただきたい。」(出典:銀座カフェーパウリスタ オンラインショップ⇒
http://www.paulista.co.jp/paulista/)と演説したといわれています。
宣伝のために「鬼の如く黒く、恋の如く甘く、地獄の如く熱きコーヒー」
※1というキャッチコピーを書いた試飲券を配り、多い日には1日4,000杯は売れたそうです。客層は学生や労働者のほか、店舗の付近に大手新聞社や外国商館が集中していたこともあり、芥川龍之介、菊池寛、永井荷風、獅子文六、藤田嗣治などの大正期を代表する文化人も数多く訪れ、文化の発信拠点となっていきました。また、当時の小説や詩などの文学作品には「カフェーパウリスタ」の店名が度々登場しています。
※1.「鬼の如く黒く、恋の如く甘く、地獄の如く熱きコーヒー」・・・・・・フランスの貴族で政治家、美食家でもあるタレーラン(シャルル=モーリス・ド・タレーラン=ペリゴール)の『カフェ、それは悪魔のように黒く、地獄のように熱く、天使のように純粋で、そして恋のように甘い』から引用したもの。・コーヒー文化が花開いた銀座 時代が明治から大正へと移ろうころ、文明開化を最も象徴していた街は銀座でした。銀座は1872年(明治5年)の火災(銀座大火)の後、街を不燃都市とすべく西洋風の煉瓦造りの建築が立ち並べられました(銀座煉瓦街)。煉瓦街では道幅を広くとり、街路樹を植えて歩道と車道を分離し、ガス灯で夜の街を灯しました。建物にはアーケードが設置され、輸入品店、洋食店、パン屋、洋服店、勧工場(百貨店の先駆け)など最先端の品々が揃うようになりました。地理的にも新橋駅
※2前という好立地もあって、外国人をはじめ多くの人が訪れ、江戸期の日本橋をしのぐ日本一の繁華街に生まれ変わりました。また、アーケードの列柱にガラスをはめ込んでショーウインドウを作ったり、土足で入店するスタイル(松坂屋銀座店1924年(大正13年開店))も銀座からはじまったものです。
※2.新橋駅・・・・・・1872年10月14日(明治5年9月12日)日本初の鉄道が横浜ー新橋間に開業。1914年に東京駅が開業するまでは東京の玄関口となった。 やがて街には大手新聞社や出版社も集まり、文化・情報の発信拠点の役割も担うようになっていました。1911年(明治44年)には「カフェーパウリスタ」のほかにも「カフェー・プランタン」や「カフェー・ライオン」といった大正期を代表する喫茶店が相次いで開店し、これらのカフェは新聞記者、買い物客、あるいは文化人など多様な人々の憩いの場であるとともに交流の場ともなりました。銀座はいわば日本におけるコーヒー文化の発祥の地ともいえるのではないでしょうか。
・カフェーパウリスタのその後 明治の終わりに誕生し、大正、昭和と三つの時代のコーヒー文化を牽引したカフェーパウリスタですが、当時の銀座店は残念ながら1923年(大正12年)関東大震災によって銀座の街とともに倒壊し、ほどなくしてサンパウロ州とのコーヒーの無償供与の契約も期限が切れたこともあり店舗経営からは撤退してしまいます。
その後は、規模を縮小し焙煎卸業を専門に営み、太平洋戦争中には当局の指示により社名を日東珈琲株式会社に変更しましたが、1969年(昭和44年)には子会社として株式会社カフェーパウリスタを設立。翌年から銀座8丁目に再び銀座店をオープンし、1978年には日本滞在中のジョン・レノン、オノ・ヨーコ夫妻も通うなど、現在でも往時を偲ばせるたたずまいで営業を続けています。
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