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オススメ記事一覧(もくじ)

オススメ記事一覧(もくじ)
ここでは最新記事と産地情報へリンクを載せています。ぜひご活用ください。

・最新記事
 06/08⇒日本のカフェ文化を開花させたブラジル産コーヒー
 06/08⇒ブラジルコーヒーの産地情報
 12/09⇒インカの隆盛
 12/09⇒ペルーコーヒーの産地情報
 09/09⇒ホンジュラス/ロス オコティージョス農園


・生産国情報
アフリカ
エチオピア
ケニア
タンザニア
ブルンジ
ルワンダ

中南米
エクアドル
エルサルバドル
グアテマラ
キューバ
コスタリカ
コロンビア
ジャマイカ
ニカラグア
ハイチ
パナマ
ブラジル
ペルー
ボリビア
ホンジュラス
メキシコ

アジア・その他
インドネシア

・その他のオススメ
濃厚エスプレッソソースが奏でる魅惑のコーヒーゼリー
マキネッタで淹れるマイルドなエスプレッソ

・お得なセット
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2019/06/08(土) | オススメ記事一覧(もくじ) | トラックバック(-) | コメント(0)

ブラジルの産地情報

ブラジルコーヒーの産地情報
ブラジル国旗




・基本データ
国名 :ブラジル連邦共和国
面積 :851.2万平方キロメートル(日本の22.5倍)
人口 :約2億930万人(2017年)
民族 :欧州系(約48%)、アフリカ系(約8%)、東洋系(約1.1%)、混血(約43%)、先住民(約0.4%)(2010年)
首都 :ブラジリア
言語 :ポルトガル語
宗教 :カトリック約65%、プロテスタント約22%、無宗教8%(2010年)
GDP :2兆560億米ドル(2017年)
主要産業 :製造業、鉱業(鉄鉱石他)、農牧業(砂糖、オレンジ、コーヒー、大豆他)
通貨 :レアル
独立した年 :1822年ポルトガルから独立

 アンデス山脈の東麓に位置するブラジルは南米大陸最大の面積を誇ります。1500年にポルトガル人のペドロ・アルヴァレス・カブラルが漂着・「発見」した当時は、同時期にアンデス山脈を挟んで西側に高度な文明を築いていたインカ帝国とは対照的に、少数の先住民族が暮らすだけの土地でした。カブラルはこの地を「ヴェラ・クルス(真の十字架)島」と命名しポルトガルの植民地支配が始まり、16世紀からは国名も赤い染料の原料となる「パウ・ブラジル」という樹木に由来する「ブラジル」と呼ばれるようになりました。

 植民地時代はフランスやオランダの侵入をはねのけながら、16世紀のパウ・ブラジの輸出とサトウキビプランテーション、17世紀末から18世紀にかけてのゴールドラッシュやダイヤモンドの発見と幾たびの経済バブルを経験し、19世紀からはコーヒー栽培が盛んになりました。かつては、プランテーションでの労働力とするために先住民狩りがおこなわれ、当時ポルトガル領であったアフリカのアンゴラから多くの黒人奴隷が運ばれたという黒い歴史もかかえています。他のラテンアメリカ諸国に比べてプランテーション経済への依存が大きいこともあり、奴隷解放が実現したのは西半球で最も遅い独立後の1888年のことです。

 1822年に独立をして以降は政治体制を、帝政、共和制(1889年)、軍事独裁政権(1964年)と変遷し、1985年からは再び文民政権が復活しています。19世紀中頃から南東部のリオデジャネイロやサンパウロでもコーヒーの栽培が盛んになり、1888年の奴隷制廃止以降は不足となった労働力を補うためにヨーロッパや中東、アジアからの移民を導入します。日本人も1908年に笠戸丸で第一回の移民781人(158家族)が海をわって以降、太平洋戦争による中断期を除いて移民事業を終了する1993年まで(移民船の出港は1973年が最後)の間におよそ30万人もの日本人がブラジルに移住したとされています。その結果、ブラジルで暮らす日系人は5世、6世の世代にまで広がり、その数は約150万人にものぼります。また、移民事業の背景と、ブラジルコーヒーと日本のコーヒー文化の関係についてはこちらの記事に書いています。⇒日本のカフェ文化を開花させたブラジル産コーヒー

 現代の主要産業にはコーヒーにくわえ、サトウキビ、オレンジがありいずれも生産、輸出量ともに世界一位となっています。また、工業も盛んで、レアアースや石油などの豊富な天然資源を背景に経済成長を続け、航空機を中心としたハイテク産業や、バイオ燃料の技術(サトウキビからエタノールを精製)で世界をリードし、2000年代以降はロシア、中国、インド、南アフリカと並び「BRICS」と呼ばれる新興国の一員になりました。

・国土
 ブラジルは南米大陸の47%を占める面積を持ち(日本の22倍に相当)、中国に次いで世界第5位の広さを誇ります。広大な国土には高い山は少なく、国内最高峰でもベネズエラ国境にあるネブリーナ山の3,014mとなっています。国土全体に起伏が多いのが特徴で、丘陵、高原がひろがっています。

 東部は大西洋に面しており、北部をアマゾン川が流れ、その流域には広大な熱帯雨林が広がっています。この地域では1970年代以降に森林の再生速度を超えるペースで大規模な焼畑農法がおこなわれており環境問題が深刻化し、近年では人工衛星を使った監視もおこなわれています。

 また、中央から南にかけては痩せた土壌のセラード(イネ科の植物や低木が生える草原)と呼ばれる乾燥したブラジル高原が広がります。この地域では1970年代から21世紀初頭にかけて日本の支援によって日本の国土の5倍もの広さにの土地が土壌改良され、このプロジェクトによって大豆の生産量が43万トン(1975年)から4,000万トン(2010年)にまで増加するなど、農業が急速に発展しました。

 南東部の大西洋岸地帯はもっとも開発が進んでおりで、リオデジャネイロやサンパウロなどの大都市があり人口が集中しています。

・気候

 南米大陸最大の面積をもつブラジルでは地域によって気候も大きく異なっており、大きく見ると北部の熱帯雨林気候、中部のサバナ気候、南部の温帯湿潤気候に分けることができます。南半球に位置するため南に行くほど冷涼な気候となり、南部地域では四季(日本とは逆になる)をはっきりと感じられるようになります。

 北部のアマゾン地域は、赤道直下にあたるため熱帯雨林気候となっており、気温は年間を通じて30℃を超え、降水量も年間2,000㎜以上になります。中央部はサバナ気候で雨季(11~3月)と乾季(5~9月)がはっきりと分かれています。そして、南部のサンタ・カタリーナ州、パラナ州、リオグランデ・ド・スル州の三州は温帯湿潤気候に属し四季があり、最南部では年間平均気温が17℃前後と低く冬には雪が降ることもあります。

・産地情報

・歴史
 およそ150年にわたりコーヒー生産量が世界一を誇ってきたブラジルですが、元々南米大陸には自生するコーヒーはなく、1727年にフランス領ギニアからブラジル北部のパラ州へと苗木が持ち込まれたことがコーヒー栽培の始まりとされています。

 19世紀初めのポルトガルの植民地時代、従来のサトウキビや金の採掘が不調になったことから、新たな収入源としてコーヒーの生産が本格的に始まりました。その中で、「ファゼンダ」と呼ばれる大規模農園が、奴隷による豊富な労働力を背景に19世紀末にかけ生産を拡大させました。

 1850年にブラジルでの奴隷制度が廃止されたのちは、ヨーロッパ系移民を雇用し労働力とするようになるものの、その後も欧米での爆発的なコーヒー人気が後押ししコーヒー生産は急増し、コーヒー栽培に適した南東部のリオデジャネイロやサンパウロなどを中心に急速に広がっていきました。その結果、ブラジルは世界最大のコーヒー生産国へと成長していったのです。

・現在のコーヒー栽培
 ブラジルは世界最大のコーヒー生産国です。2013年の統計では、世界のコーヒー生産量892万トンのうち30%以上(296万トン)も占め、2位の ベトナム(146万トン)を大きく突き放し、コーヒーの輸出量でも世界1位を誇っています。この生産量は全世界の約3分の1を占め、現在までのおよそ150年間世界一の生産量を誇ってきました。また、生産量の80パーセントはアラビカ豆で残りはロブスタ豆を生産しています。

 コーヒーの生産は南東部のサンパウロ州をはじめとして、ミナスジェライス州、パラナ州が中心ですが、過去に何度か霜の被害を受けたために生産地域はしだいに北上し、最近では、ミナスジェライス州およぴバイーア州西部に広がるセラード地帯が注目されています。

ブラジルコーヒーと日本のコーヒー文化との関わりについてはこちらへ
日本のカフェ文化を開花させたブラジル産コーヒー

・ブラジルのコーヒーレビューはこちらから
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2019/06/08(土) | 産地情報 | トラックバック(-) | コメント(0)

日本のカフェ文化を開花させたブラジル産コーヒー


日本のコーヒー文化を開花させたブラジル産コーヒー

・ブラジル移民事業の舞台裏
 
 18世紀にフランス領ギニアからもたらされ栽培が始まったブラジルたコーヒーは、19世に入ると南部のサンパウロ州やミナスジェライス州にまで拡がり、奴隷を労働力とした大規模なプランテーションが多数建設され、生産量は世界の8割を占めるまでに増加していました。1888年に奴隷制が廃止されると奴隷に代わる新たな労働力としてイタリアを中心としたヨーロッパ移民を受け入れていましたが、その劣悪な労働環境からイタリア政府は1902年に渡航を禁止し、ブラジルの生産者は新たな労働力を確保する必要にせまられていました。

  一方、同時期のの日本では、日露戦争(1904年~1905年)に辛くも勝利したものの国内経済は疲弊し不況の真っ只中にあり、失業対策として海外への移民事業が国家的プロジェクトで遂行されていました。ところが、これまで主な移民先であったアメリカやカナダ、オーストラリアで日本人排斥の風潮が高まり、移民の受け入れを制限したため、それに代わる移民先としてブラジルが有望視されるようになりました。

 そして、後の世に「ブラジル移民の父」と評される皇国植民会社社長の水野龍は1908年(明治41年)4月28日、第一回の移民船「笠戸丸」を781名の日本人を乗せて神戸港からサンパウロへ州のサントス港へ向けて出港させます。このとき海を渡った移民のうち3分の1を超える325人が沖縄県出身者で、独身者の移民は認められていなかったため見ず知らずの若者が形式上の夫婦(構成家族)として渡るケースも多かったようです。

 彼らの多くはコーヒー農園での労働に従事しましたが、もともと奴隷解放後の労働者不足を補う目的で導入されていたため、実態は先のイタリア人と同様に奴隷に等しい扱いを受けることになりました。その環境は劣悪で、寝泊まりする家屋は家具も床板のない粗末な小屋で、労働時には常に監視が付き、マラリアにかかり命を落とす人もいました。当初は数年間の契約労働者として働き、一旗揚げたのちに帰国するつもりでしたが、賃金も低く(1日90銭にも満たなかった)生活は困窮し帰国することさえできず、日系移民の間ではこの移民計画を「棄民」(日本に棄てられた民)として揶揄する声もあがりました。

 結果的に笠戸丸で移民した者のうち当初割り振られた農園に留まったのはわずか4分の1のみで、そのほかは自分で農地を開拓したり、新たに商売をはじめる者、隣のリオ・デ・ジャネイロ州や隣国のアルゼンチンへ向かう者などもいました(この定着率の悪さが農園の恒常的な労働力不足を招き、その後も日系移民を送り続ける要因ともなった)。

・水野龍が手にしたブラジルコーヒー 
 
 最初に海を渡ったブラジル移民は様々な困難を乗り越えなくてはなりませんでしたが、受け入れたブラジル側からみれば彼らが貴重な労働力であったことには違いなく、サンパウロ州政府は水野の功績を称え、1910年(明治43年)10月11日「日本に於けるブラジル珈琲宣伝に関する契約」を締結します。

 契約では、香山六郎の回想録によると「サンパウロ州政府がコーヒーを日本で宣伝するため、農務局が毎年向こう五年間コーヒー三百俵を無償で水野氏に提供するから、水野氏は東京、大阪、神戸、京都の四都市にパウリスタ式珈琲店を開設してその宣伝にあたることに契約成ったのだった」とれています。この契約は実際には期間・輸入量は修正され、契約期間も1923年(大正12年)まで延長されています。

 上述のような一見すると気前の良さそうにみえる契約を交わしたサンパウロ州政府ですが、その裏には切実な事情がありました。水野が移民船を送った20世紀初頭は、中米、アジアでも生産量が増加し、くわえて第一次世界大戦前夜のヨーロッパではコーヒーの輸入を控え得るようになっていたため、世界的に供給過剰となりコーヒーの取引価格の下落をまねいていた時期でもありました。そのような状況のなかでもブラジル政府は減産政策をとらず、生産者を保護するため1906年に価格維持政策を打ち出し余剰コーヒーを一定価格で買い取り国際価格を維持するように努め、1914年に開戦した第一次世界大戦への参加を条件にアメリカやフランスへコーヒーを売却するなどして在庫を捌くことに力を注いでいました。

 サンパウロ州が水野に無償でコーヒーを提供するに至ったのは、新たなコーヒーの輸出先を探すことが急務となるなかで、サンパウロ州政府としても日本を新たなコーヒー消費国として育て市場開拓しようという投資的な目論みが含まれていたのです。

・「カフェーパウリスタ」創業

 水野はサンパウロ州から受け取ることになったこのコーヒーを「補助珈琲」と称し、大隈重信の力添えも得て(当初は輸入の許可が下りなかった)契約に基づき1910年(明治43年)合資会社「カフェーパウリスタ」(パウリスタとは「サンパウロっ子」という意味)を設立します。そして、翌1911年(明治44年)12月12日銀座店が開店したほか、横浜、大阪、名古屋をはじめ、北は札幌、南は福岡など全国各地、海外では上海にまで展開し、最終的には23店舗、正社員200人、従業員2,000人を抱える日本初の一大コーヒーチェーンに成長させました。(1号店は1911年6月25日に開店した大阪府箕面店であるが、1年余りで閉店している)。

 ところで、日本初となる喫茶店は水野がカフェーパウリスタを設立するよりも22年前に既に東京上野に誕生していました。「可否茶館」(かひさかん)と呼ばれるその店は1888年(明治21年)に鄭永慶が、パリの文芸家が集うサロンを模して設立し、コーヒーだけではなくワインやタバコも提供し、新聞・雑誌各紙を備え、ビリヤードなどの娯楽設備やシャワー室まで併設していました。

 ところが、西洋文化にまだ馴染みのない当時の庶民には時代を先取りしすぎており、そばが八厘から一銭くらいの時代にコーヒー1杯が一銭五厘(ミルクコーヒーは二銭)と高価であったため、5年も経たないうちに閉店に追い込まれていました。

 それから20年ほど経ち、水野が「カフェーパウリスタ」を設立した明治末期には、明治維新後から国を挙げて推し進められてきた「文明開化」がようやく成熟し、庶民の間にも「西洋」というものが身近に感じられる時代が到来していました。産業の工業化によって社会に新たに労働者層が生まれ、中産階級の人口が増加し、都市の発展によって人々のライフスタイルも大きく変化していました。それとともに都市文化も芽生え、食卓には洋食が並ぶようになり、パンやケーキなどの洋菓子が口に入りやすくなったことで庶民の味覚も変化し、コーヒーの苦味も受け入れやすくなっていました。年間のコーヒー輸入量を見ても1912年(明治45年)までは100トンにも満たなかっのに対し、1913年以降は飛躍的に増加し1926年(大正13年)には10倍を超えて1,057トンとなっていることから、この時期にコーヒーが日本人に受け入れられるようになっていったことを窺わせます。

 1911年(明治44年)に開店した銀座店は、白亜の三階建ての建物で、西洋の雰囲気を醸し出す内装、海軍士官の白い制服を着た少年が給仕をおこない、コーヒーの価格は当時うどん・そばが1杯3~4銭の時代にあって1杯5銭(ドーナツ付きであったともいわれる)という庶民にも手が届く価格で提供されていました。水野は開店時に、「今日皆様に供する珈琲は日本移民の労苦がもたらした収穫物で、この一杯には、その汗の結晶が浸け込んでいる。準国産品ともいえる珈琲を普及するために、是非ご協力をいただきたい。」(出典:銀座カフェーパウリスタ オンラインショップ⇒http://www.paulista.co.jp/paulista/)と演説したといわれています。

 宣伝のために「鬼の如く黒く、恋の如く甘く、地獄の如く熱きコーヒー」※1というキャッチコピーを書いた試飲券を配り、多い日には1日4,000杯は売れたそうです。客層は学生や労働者のほか、店舗の付近に大手新聞社や外国商館が集中していたこともあり、芥川龍之介、菊池寛、永井荷風、獅子文六、藤田嗣治などの大正期を代表する文化人も数多く訪れ、文化の発信拠点となっていきました。また、当時の小説や詩などの文学作品には「カフェーパウリスタ」の店名が度々登場しています。
※1.「鬼の如く黒く、恋の如く甘く、地獄の如く熱きコーヒー」・・・・・・フランスの貴族で政治家、美食家でもあるタレーラン(シャルル=モーリス・ド・タレーラン=ペリゴール)の『カフェ、それは悪魔のように黒く、地獄のように熱く、天使のように純粋で、そして恋のように甘い』から引用したもの。

・コーヒー文化が花開いた銀座

 時代が明治から大正へと移ろうころ、文明開化を最も象徴していた街は銀座でした。銀座は1872年(明治5年)の火災(銀座大火)の後、街を不燃都市とすべく西洋風の煉瓦造りの建築が立ち並べられました(銀座煉瓦街)。煉瓦街では道幅を広くとり、街路樹を植えて歩道と車道を分離し、ガス灯で夜の街を灯しました。建物にはアーケードが設置され、輸入品店、洋食店、パン屋、洋服店、勧工場(百貨店の先駆け)など最先端の品々が揃うようになりました。地理的にも新橋駅※2前という好立地もあって、外国人をはじめ多くの人が訪れ、江戸期の日本橋をしのぐ日本一の繁華街に生まれ変わりました。また、アーケードの列柱にガラスをはめ込んでショーウインドウを作ったり、土足で入店するスタイル(松坂屋銀座店1924年(大正13年開店))も銀座からはじまったものです。
※2.新橋駅・・・・・・1872年10月14日(明治5年9月12日)日本初の鉄道が横浜ー新橋間に開業。1914年に東京駅が開業するまでは東京の玄関口となった。

 やがて街には大手新聞社や出版社も集まり、文化・情報の発信拠点の役割も担うようになっていました。1911年(明治44年)には「カフェーパウリスタ」のほかにも「カフェー・プランタン」や「カフェー・ライオン」といった大正期を代表する喫茶店が相次いで開店し、これらのカフェは新聞記者、買い物客、あるいは文化人など多様な人々の憩いの場であるとともに交流の場ともなりました。銀座はいわば日本におけるコーヒー文化の発祥の地ともいえるのではないでしょうか。

・カフェーパウリスタのその後
  
 明治の終わりに誕生し、大正、昭和と三つの時代のコーヒー文化を牽引したカフェーパウリスタですが、当時の銀座店は残念ながら1923年(大正12年)関東大震災によって銀座の街とともに倒壊し、ほどなくしてサンパウロ州とのコーヒーの無償供与の契約も期限が切れたこともあり店舗経営からは撤退してしまいます。

 その後は、規模を縮小し焙煎卸業を専門に営み、太平洋戦争中には当局の指示により社名を日東珈琲株式会社に変更しましたが、1969年(昭和44年)には子会社として株式会社カフェーパウリスタを設立。翌年から銀座8丁目に再び銀座店をオープンし、1978年には日本滞在中のジョン・レノン、オノ・ヨーコ夫妻も通うなど、現在でも往時を偲ばせるたたずまいで営業を続けています。

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ブラジルの産地情報

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2019/06/08(土) | ブラジル | トラックバック(-) | コメント(0)

インカの隆盛

インカの隆盛

・高度な文明をもつインカ帝国
 16世紀初頭、コロンブスがアメリカ大陸に「到達」したころ、現在のペルーを含むエクアドル、ボリビア(チチカカ湖周辺)を中心としたアンデス地域には、人口およそ1000万を擁し、すぐれた統治システムと高度な技術を兼ね備えたインカ帝国(正式名称は「4つの地方」を意味するタワンティンスーユ※1)が隆盛を極めていました。
※1.タワンティンスーユ・・・・・・ケチュア語で「タワ」は「4」を、スーユは「部分、地方」を表し、タワンティンスーユで「4つの地方」を意味となる。

 15世紀、小規模なクスコ王国の第9代パチャクティ王(在位 1438 ~ 63 それ以前は伝説上の人物)は、周辺の諸民族を征服し国家の礎を築き、以後、親子3代にわたってアンデス全域に版図を拡大しました。新たに征服した土地にはミティマエスとよばれる労働者や兵士を強制的に移住させ、開墾と同時に反乱を抑制する役割を担いました。広大な領土は、クスコを中心に4つのスーユ(地方)に分け、国内各地を全長40,000㎞にも及ぶインカ道で結び、キープ※2とよばれる紐の結び目を用いて人口や農作物などの様々な数情報を記録し、チャスキ(飛脚)が伝達するという通信網を整え統治していました。また、鉄器、車輪、貨幣、文字をもたないながらも、巨石建築、灌漑、金銀細工、織物などの高度な技術ももっていました。
※2.キープ・・・・・・情報は10 進法で記録され、ゼロの概念もあった。作製と解読をおこなう専門の役人がいた。

 パチャクティは征服した諸民族に支配体制の正当性と権威を示すため、これまでアンデス地域で古くから信仰されてきた創造神ビラコチャや「ワカ※3」信仰を再編成し、自身を太陽神(インティ)の子として頂点に位置づけ、クスコのコリカンチャをはじめとした太陽神殿を各地に建設し崇拝させました。太陽神殿では6月の冬至(北半球の夏至にあたる日)にはインティ・ライミ(太陽の祭り)が行なわれ、王は太陽神にトウモロコシから造られるチチャ酒※4を捧げました。また、トウモロコシはインカの人々にとって特別な作物で、宗教的な必要性から、帝国成立とともにいち早く灌漑設備が発達し、雨の少ないアンデス高地の急斜面において階段耕地による本格栽培が行なわれていました。
※3.ワカ・・・・・・天体、山、泉、あるいは雷など自然界に畏敬の念を抱き神聖なものとして崇拝した。日本の「八百万の神」信仰に似ている。
※4.チチャ酒・・・・・・神聖なものとして「太陽の処女たち」によって造られ、祭祀や儀式に用いられたほか、兵士や農民にも振る舞われ、人々の支持を得る役割もあった。
 
 経済面では貨幣を用いた市場での取引ではなく、国家統制のもとに生産された農作物や生活物資を徴収し、労働や兵役の対価として再配分される仕組みで国家と農民は互恵関係で結ばれていました。また、飢饉や社会弱者のための生活保障もありました。このほかにも、ミタ制と呼ばれる数ヶ月の交代制で土木や建設労働にあたる強制労働制度があり、この制度はスペインによる植民地統治でもそのまま引き継がれ、特にポトシ銀山では過酷な労働に従事させられ先住民社会の崩壊の一因となりました。

・インカの受難
 上述のように高度な文明を誇っていたインカ帝国でしたが、1520年代になるとスペイン人コンキスタドール(征服者)が姿を見せるようになり帝国の繁栄に暗雲が漂いはじめます。

 フランシスコ・ピサロはエル・ドラード(黄金郷伝説)を信じ、二度にかけての南米探検(1524~26年)のすえ現在のペルー最北部の町トゥンベスに到達しました。この町の発展した様子や大きな神殿をみたピサロは、この地に金銀の溢れる豊かな国があることを確信し、一旦スペイン国王から征服の許可をもらうため帰国の途につきます。

 一方その頃、インカ帝国ではスペイン人の持ち込んだ天然痘※1がスペイン人との接触よりもいち早く猛威を振るっていました。当時、現在のコロンビア南部へ遠征中だったインカ皇帝ワイナ・カパックと皇太子ニナン・クヨチをはじめ帝国の重臣たちはスペイン人と接触する前にこの伝染病によって命を奪われ、正当な後継者を失った帝国は異母兄弟であるワスカルとアタワルパの二人の王子による内戦へと発展していました。
※1.天然痘・・・・・・コロンブスが新大陸に到達した際に持ち込まれた伝染病には天然痘のほか麻疹(はしか)、チフス、インフルエンザなどがある。未知の病に免疫をもたない南北アメリカ先住民の間で急速に蔓延しその数を激減させ、先のアステカ文明と同様に帝国滅亡の主因となった。

 1532年、内戦はアタワルパがワスカルを捕らえ勝利しまが、クスコへの帰路の途中、ピサロが168人のわずかな手勢とともに再来しました。アタワルパは、スペイン人上陸の知らせを受けたとき、スペイン人の容姿や海からやってきたことに創造神ビラコチャ伝説※2との類似点をみて(生け贄・奴隷にするのが目的だったとする考察もあります)、カハマルカで8万の軍勢を率いてピサロとの会見に臨むことになります。
※2.ビラコチャ伝説・・・・・・伝説は地域により様々であるが、代表的なものに容姿は色白であご鬚をたくわえ大柄な男性で、チチカカ湖から現れ、太陽、月、星、人間を作ったのち海の泡となって消えたという伝説がある。

 この会見の席でピサロはアタワルパを捕縛することに成功します。当時の記録では、神父がキリスト教徒への改宗を要求し教義をを説くため聖書を手渡すと、文字の読めないアタワルパが聖書を放り投げました。これを口実にあらかじめ広場に潜ませておいた兵士が合図とともに一斉に攻撃し、不意を突かれ、初めて目にする銃や騎馬に慌てふためいたアタワルパ軍はまともな抵抗ができずにわずかな時間で数千人(30分あまりで8000人とも)が虐殺され、アタワルパは輿から引きずり下ろされたと伝えられています。

 カハマルカで幽閉の身となったアタワルパは、自身が幽閉されている部屋を満たすほどの金銀財宝を身代金(現在の価値にすると約120億円の価値)として差し出すものの、インカの反乱を恐れたピサロは彼を釈放せず、証拠はないものの兄ワスカル暗殺の罪を着せて1533年に処刑します。刑は当初は火刑を宣告されますが、アタワルパは死後の復活を信じていたことからキリスト教へ改宗し、フランシスコ・アタワルパという洗礼名を与えられ、絞首刑に処せられました。このアタワルパがインカ帝国の実質的な権力と権威をもった最後の皇帝となりました。

 インカの皇帝を処刑したものの、各地の残存勢力が依然として脅威となっていたため、ピサロは傀儡の皇帝を立て、その権威を利用しようと考えました。激しい抵抗をなんとか退けながら1533年にインカ帝国の首都であるクスコを占領し、1535年には補給のしやすさから太平洋沿岸にリマ市※3を建設します。
※.3リマ市・・・・・・当初はシウダー・デ・ロス・レイェス(諸王の都)」と名付けられた。リマはリマック川に由来。インカ帝国滅亡後は、植民地時代から現在に至るまでペールーの政治、経済、文化の中心となっていく。

 スペイン人は征服過程で各地で略奪を繰り返し、神殿や王宮などのインカにとって重要な建物も次々に破壊しました。こうした暴挙に対し、傀儡の皇帝もスペイン人同士の不和を利用しようとしていたことから両者の対立はしだいに深まり、皇帝は隙を見てクスコ北方のビルカバンバへと逃れます。その後36年ほど抵抗は続きましたが、激しい攻防によって多くの先住民も犠牲になり、1572年に皇帝トゥパック・アマルが処刑されたことで、名実ともにインカの歴史は幕を閉じました。

 その後のインカの人々はスペインによる植民地支配に組み込まれていきますが、たび重なる伝染病の流行や、戦乱、探検での荷担ぎ(手足を鎖でつながれていた)、過酷な労働などによって数を減らし、最盛期には1000万人はいたとされる先住民人口は16世末にはわずか100万人にまで激減したといわれています。

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ペルーコーヒーの産地情報


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ペルーの産地情報

ペルーコーヒーの産地情報

ペルー国旗



・基本データ
国名 :ペルー共和国(漢字表は「秘露」)
面積 :約129万平方キロメートル(日本の約3.4倍)
人口 :約3,182万人(2017年)
民族 :先住民45%、混血37%、欧州系15%、その他3%
首都 :リマ
言語 :スペイン語(他に先住民の言語であるケチュア語,アイマラ語等)
宗教 :カトリック教
GDP :1921億ドル(2016年)
主要産業 :製造業、農牧業、鉱業、水産業、漁業
通貨 :ソル
独立した年 :1821年スペインから独立

 ペルーはスペインによる植民地支配を受ける以前には、インカ帝国(正式名称はタワンティンスーユ)をはじめいくつもの古代文明が勃興しました。世界遺産でもあるナスカの地上絵やマチュピチュといった遺跡は、現在では往時を偲ぶことのできる観光地として世界中の人々を惹きつけています。(インカ帝国については⇒インカの隆盛に詳しく書いています。)

 19世紀末には日本人も移民として渡り、1990年にはアルベルト・フジモリがペルーで初めて日系大統領になるなど日本にもなじみのある国で、1996年にMRTA(トゥパク・アマル革命運動)による日本大使公邸占拠事件も衝撃的な出来事として記憶に残っています。

 日本の3倍を超える国土には天然資源が豊富で、鉱物は銅・鉛・亜鉛・銀・金などが採掘され、北部では石油も産出しています。ただ、開発地域は先住民が居住しており、自然環境に与える悪影響や健康被害などの問題も起きています。

 農業は主食のジャガイモやトウモロコシのほかサトウキビ、綿花、コーヒーなど耕作面積は狭いながらもアンデス山岳地帯の斜面を活かして様々な作物が栽培されています。なかにはペルー原産の食材も多く、ジャガイモ、トウモロコシ、トマト、カボチャ、豆類、ピーナッツ、トウガラシなどいずれも日本でなじみのあるものばかりです。

 ペルーの人口は約3,182万人(2017年) で、その人口構成は先住民45%、メスティソ(先住民と白人の混血)37%、白人(ヨーロッパ系)15%、このほかアフリカ系(黒人)、日系、中国系などが3%となっており、他の南米諸国に比べ先住民に割合が高いのが特徴です。

 信仰されている宗教では90%以上がカトリックですが、先住民の間ではスペイン征服以前の土着宗教とキリスト教が背反し、融合しながらも存続しています。

 言語はスペイン語のほか、インカ帝国の公用語でもあったケチュア語や、アンデス地方南部のアイマラ語も公用語として定められています。

・国土
 ペルーは南米大陸の太平洋に面し、国土の中央部をアンデス山脈が南北に縦走しています。国土は大きく3つの地域に分かれ、中央のアンデス山岳地帯は「シエラ」、西部の太平洋沿岸の砂漠地帯は「コスタ」、東部の熱帯雨林は「モンターニャ(セルバ)」とよばれています。これら3地域の中でもペルーと隣国ボリビアにまたがるシエラの山岳地帯は、スペインによる植民地化以前からいくつもの古代文明が勃興した地域として考古学の面からも重要視されています。

・コスタ
 太平洋側は南極から冷たいフンボルト海流が流れてくる影響で雨はほとんど降らず、6月~10月にはガルーアという濃い霧が発生します。大部分が砂漠であるものの川の流域にはオアシスがあり、国民の半数以上がこの地域に住んでいます。中西部のリマック川の河口には首都リマがあり、政治・経済の中心となっています。

・モンターニャ(セルバ)
 アンデス山脈の東斜面を降りた地域はアマゾン川流域にあたり高温多湿で熱帯雨林が広がります。国土の60%を占めるこの地域では、豆やバナナなどの熱帯作物、嗜好品のコカなどが栽培されています。

・シエラ
 アンデス山岳地帯のシエラはでは国内最高峰のワスカラン山(6,768m)をはじめ6,000メートルを超す高峰がそびえ立ちます。赤道に近いため高度によって熱帯雨林から氷雪地帯まで多様な環境をもっています。この地域は標高ごとに以下のようにさらに細かく分類されています。

ユンガ:
 標高500メートルから2,500メートルあたりのアンデス山麓地帯はユンガとよばれ、西側斜面では乾燥に強いサボテンが生え、東斜面ではマニオク(キャッサバ)、サトウキビなどの熱帯性の植物が栽培されています。また、コーヒーの栽培もこのエリアでおこなわれています。

キチュア(ケチュア):
 標高2,500メートルから3,500メートあたりはキチュア(ケチュア)とよばれるなだらかな地形となっています。比較的温暖な気候のため富士山頂と同じくらいの高地ではあるものの、かつてのインカ帝国(正式名称はタワンティンスーユ)の首都であったクスコをはじめいくつもの都市があり、先住民系を中心に多くの人々が暮らしています。また、農業も盛んで、「カンペシーノ」(スペイン語で農民を意味する)とよばれる先住民によってインカの時代から変わらない農業が続けられています。ペルーを代表する景観となっているトウモロコシの階段耕地があるのもこのエリアです。

スーニ:
 標高3,500メートルを超すとスーニとよばれ、気候は冷涼で草地が広がります。ここではペルーの人々の主食であるジャガイモなどのイモ類が栽培されています。

プーナ:
 標高3,800メートルを超えるとプーナとよばれ、寒冷な気候となり、草原が広がっています。ここでは、アンデスでおなじみの動物であるリャマ(輸送用)やアルパカ(毛の利用)が放牧されています。また、リャマの肉も儀式など特別なときには食されれています。

・産地情報

・ペルーコーヒーの歴史
 ペルーにコーヒーが持ち込まれたのは、スペインの植民地支配化にあった1740~60年頃だとされています。生産当初はすべて国内消費用で、輸出は独立後の1887年から始り、初めはドイツやイギリスに輸出されていました。(参考図書:『スペシャルティコーヒー大辞典』 P242)

 1968年のペルー革命によって誕生したベラスコ政権は、農地改革をおこない、それまで一部の大地主によって所有されていた土地を接収し、小作人に再分配したことでコーヒーを栽培する小規模生産者の協同組合化が進みました。

 1980年代にアンデス山岳地帯でペルー共産党のセンデロ・ルミノソがゲリラ活動を展開すると、生産されたコーヒーの陸路での輸送が困難となってしまいました。空輸することもありましたが、これではコスト高となり、また、政府軍との激しい戦闘で精製施設が破壊され、コーヒー農園そのものが焼き払われるなどの被害を受けことで、コーヒー産業は大きな打撃を受けました。

 農地がゲリラの支配下におかれたとき、換金性の高いコカ栽培を強制されたり、自らコカ栽培に切り替える農家もあらわれたことから生産量の減少に歯止めがかからない時期もありましたが、その後、フジモリ大統領がゲリラを一掃したことで、1990年代中頃以降からは徐々にコーヒー栽培が再開されるようになりました。

・現在の栽培状況
 コーヒーの栽培が行なわれているのは険しいアンデスの山岳地帯の標高800から1,500メートルの地域が中心で、1農家あたりの栽培面積は数ヘクタールしかありません。栽培は先住民によっておこなわれており、化学肥料を使わない有機栽培で、実ったコーヒーチェリーは手摘みされ、水洗式で精製し天日乾燥させるのが一般的です。

 かつてはインフラ設備も技術も遅れており、農園と精製所の距離も離れていたために収穫されたコーヒーチェリーを運ぶのに時間がかかり、高品質のコーヒーを生産することは困難でしたが、近年では最先端の設備を導入する地域も出始め、2010年の全米スペシャルティー・コーヒー協会の品評会で最優秀賞をとるなど品質は向上してきています。

 国内の主な産地はフニン、カハマルカ、クスコ、サンマルティン、アヤクチョなどがあり、特に首都リマの東部にあるチャンチャマイヨは古くからある産地で良質のコーヒーを生産するとして世界的に有名です。年間を通じて気温が20~30℃と気候が安定しており、高緯度とアンデス山脈の標高の高さを併せ持っているため、将来的な温暖化にも対応できると見込まれています。

 生産量は、2012 年に発生したサビ病の影響により一時期生産量が落ち込みましたが、その後の政府の支援で苗木の植替えが進み生産量は再び回復。2016年では27万7760トン(出典:「Global Note」)とインドに次いで世界第8位(南米ではブラジル、コロンビアに次いで3位)を記録し、生産量も増加傾向にあります。

 輸出量は2014年の統計で21万トンで世界9位(出典:「Total Production of Exporting Countries」)で、現在のペルーにとってコーヒーは主要な輸出農作物のひとつとなっています。主な輸出先は2018年の統計でドイツ、アメリカ、ベルギーの順で、日本への輸出量は少なく全体の7位にとどまっています(出典:「Junta Nacional del Café」)。

 また、フェアトレードコーヒーにも力を入れており、農協や生産者団体に加盟する4万弱の中小規模の生産者がフェアトレード認証を受けています。2013年の統計ではその年に生産されたコーヒーのおよそ半分に相当する2万9965トンが輸出されています。

 フェアトレードの取り組みは、コーヒーの生産性を高め、価格の安定化は貧困や麻薬問題を解消していくために、今後もよりいっそう重要になってくると思われます。

・格付
 ペルーコーヒーの格付は、まず精製方法(水洗式・非水洗式)で分けたのち、欠点豆を取り除く方法とその数によって以下のように各付けられています。(下に行くほど高格付)

・MC [MACHINE CLEANED/マシン・クリーンド]
 選別器に一回かける。欠点豆71~100 

・MCM [MACHINE CLEANED MEJORADO/マシン・クリーンド・メホラド] 
 選別器に二回かける。欠点豆41~70

・ES [ELECTRONIC SORTED/エレクトロニック・ソーテッド]
 機械で選別したのち、電子式の選別器にかける。欠点豆11~40

・ESHP [ELECTRONIC SORTED & HAND PICKED/エレクトロニック・ソーテッド&ハンドピックト]
 電子選別したのち、さらに人の手で欠点豆を取り除く。欠点数10未満

・ペルーでコーヒーを注文すると?
 ペルーの飲食店でコーヒーを注文するとお湯の入ったカップと瓶が出てくるそうです。この瓶の中には濃縮されたコーヒーが入っており、カップに好みの濃さになるまでコーヒーを注いで頂くようです。

 「お湯に濃縮コーヒーを注ぐ」と聞いて、はじめはとても斬新なように思いましたが、実は、これに似たような飲み方は日本にもありました。原液を希釈するタイプのアイスコーヒーがそうですし、カフェではエスプレッソをお湯で割る「アメリカーノ」を提供しているお店もあったりします。

 ちなみに、ペルーではカフェオレを注文すると、お湯の代わりに温めたミルクが運ばれてくるようなので、こうなるともう日本の家庭用のアイスコーヒーを温めたものと変わらないかな?とも思いました。

 繊細な風味は欠けるようですが、あらかじめ作り置きできますし、好みの濃さに調節できるのが利点です。一見意外な飲み方をしているようで、ペルー人は考え方がわりと日本人に近いのかもしれませんね。

関連リンク
インカの隆盛

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2018/12/09(日) | 産地情報 | トラックバック(-) | コメント(0)

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