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ジャマイカの産地情報

ジャマイカコーヒーの産地情報

ジャマイカ国旗




・基本データ
国名 :ジャマイカ
面積 :10,990平方キロメートル(秋田県とほぼ同じ大きさ)(2015年)
人口 :288.1万人(2016年)
民族 :アフリカ系91%,混血6.2%,その他2.6%
首都 :キングストン
言語 :英語(公用語)、ジャマイカ・クレオール語(いわゆる「パトワ語」を含む)
宗教 :キリスト教(プロテスタント,英国国教会等)
GDP :140.3億ドル(2016年)
主要産業 :観光業、鉱業(ボーキサイト及びアルミナ)、農業(コーヒー、砂糖、バナナ)
通貨 :ジャマイカドル(J$)
独立した年 :1962年イギリスより

・歴史
 国名であるジャマイカの由来は、先住民であるアラワク人の言葉で「森と泉の島」を意味するXaymaca(ザマイカ)からきています。スペイン語ではJamaica(ハマイカ)と綴られていましたが、イギリス統治時代に英語読みのジャマイカと呼ばれるようになりました。

 ジャマイカ島は、コロンブスの1494年の二度目の航海時に「発見」され、その後スペイン人の入植がはじまり、他のスペイン植民地への食料補給基地としての役割を担いました。島にはもともとアラワク系タイノ人が暮らしていましたが、強制労働やスペイン人の持ち込んだ病気によってほぼ絶滅してしまったため、新たな労働力としてアフリカから黒人奴隷を輸入するようになりました。

 しかし、島には金などの鉱物資源が発見されなかったため、スペインの関心はしだいに薄れ、1655年にクロムウェルの「西方計画※1」によってイギリス艦隊が占領し、1670年のマドリード条約を経ておよそ300年ものあいだイギリスの統治下に置かれることになります。

※1.西方計画……当初はイスパニョーラ島(現在のハイチとドミニカ共和国)の占領をめざしていたが、疫病と大雨のために失敗し、目標をジャマイカに変更した。

 イギリスがジャマイカに侵攻した際にスペイン人が所有していた奴隷は、混乱のなか山中に逃亡し独自のコミュニティを形成しました。彼らはマルーンと呼ばれ、武装してプランテーションを襲撃するなどしばしば反乱を起こし、およそ150年にわたりイギリスに抵抗しました。たび重なる奴隷の反乱はイギリス本国にも不安を与え19世紀初頭の奴隷制度廃止のきっかけの一つにもなりました。

 17世紀は海賊が暗躍する時代でもありました。イギリスがジャマイカを占領すると、スペインの交易を妨害するため海賊にスペイン商船を襲撃することを許可し(いわば政府公認海賊)、ヘンリー・モーガン※2をはじめとする海賊がポート・ロイヤル※3を拠点とし暗躍しました。ポート・ロイヤルでは海賊が奪った財宝が売り捌かれ「世界で最も豊かで最も堕落した町」とし知られるようになりました。この港町は映画『パイレーツ・オブ・カリビアン』の舞台としても描かれています。 

※2.ヘンリー・モーガン……ウェールズ出身。年季奉公人から海賊になり、さらにはジャマイカ島代理総督にまで上り詰めた。
※3.ポート・ロイヤル……島の南東部に位置するジャマイカの首府。しかし、1692年の大地震で町の3分の2がカリブ海に沈み壊滅し、北にあるキングストンに移転した

 島の産業はサトウキビ栽培が中心で、黒人奴隷を労働力としたサトウキビプランテーションが島内各地に建設され、18世紀以降には世界有数の砂糖生産地に成長しました。また、ジャマイカ島はイギリス、アフリカ、カリブ海を結ぶ三角貿易※4の中心地でもあり、イギリスが1807年に奴隷貿易を廃止するまでに運んだ奴隷の数は40万人にものぼり、その生存年数はわずか7年未満だったとも言われています。イギリスはこの貿易により莫大な富を得たことで、18世紀後半の産業革命がを迎ることになります。

※4.三角貿易……イギリスは西アフリカ、カリブ海地域を海流に乗り一筆書きで交易品を運び効率の良く莫大な利益を上げた。イギリスからはカナリア海流に乗って武器、ラム酒、繊維製品などをアフリカへ運び、アフリカからは南赤道海流に乗って黒人奴隷をジャマイカへ、ジャマイカからはメキシコ湾流と北大西洋海流に乗って砂糖を本国へ運んだ。

 イギリスで1833年に奴隷制度が廃止されると、ジャマイカでは奴隷に変わる安価な労働力としてインド、中国、アフリカなどから年季奉公(実態は期限付きの奴隷と変わらなかった)を導入します。しかし、18世紀末にはすでに西インド諸島、ジャワ島、東ヨーロッパでの砂糖大根の栽培で砂糖の生産が拡大しており、この競争に敗れたジャマイカではそれまでのサトウキビ栽培からアメリカ資本によるバナナ栽培への転換が進みます。

 奴隷解放が実現して以降も黒人は貧困に苦しみ、政治参加も困難で社会的な地位が低い状況に変わりはなく、植民地議会への不満がく高まっていました。そうしたなか1865年にジャマイカ島東部にあるモラント・ベイの反乱(ジャマイカ事件)が起こると、イギリスは植民地議会を解散させジャマイカを直轄植民地とし、結果としてイギリスの支配が強まることになりました。これによって他のラテンアメリカ諸国と比べてもジャマイカの独立はかなり遅れることになりました。

 ジャマイカは1962年8月6日イギリス連邦の加盟国として独立を果たしました。独立後はアメリカとの経済的な関係が強くなり、貿易額でもイギリスを上回っています。主な輸出品目はアルミナ、ボーキサイト、砂糖,ラム酒、コーヒーなどで、近年では観光業による外貨収入も大きくなっています。

 ジャマイカは多くの奴隷や移民が流入した結果、国民の民族構成は多様で、アフリカ系が全体の90%を占め、このほかムラート(白人と黒人の混血)、ヨーロッパ系、アジア系(インド系、中国系)、中東系と様々です。そして、宗教も多彩で、多数派のプロテスタントをはじめ英国国教会、カトリックのキリスト教系のほか少数派にイスラム、ヒンドゥー、ユダヤ教、そしてプロテスタントが土着化したヴードゥー教なども信仰されています。また、マーカス・ガーベイが提唱したアフリカ回帰運動に感化を受けたラスタファリ運動(宗教思想運動)を実践する人々(ボブマリーの影響も大きい)もいます。

 公用語は、英語に加え英語と西アフリカとの混合言語であるジャマイカ・クレオール語(いわゆるパトワ語)も話されています。また、絶滅した先住民タイノ人の言葉(アラワク語)は、現在でも「ハンモック」「ハリケーン」「タバコ」「バーベキュー」「カヌー」などにみることができます。

 歴史的な経緯を見るとジャマイカはアフリカに起源を持つ人々を中心に、アジア、ヨーロッパなどからわたってきた移民も加わり、多民族多文化国家が形成されました。この多様性はレゲエに代表される音楽、スポーツはクリケットなど随所に見られます。この異文化に対する寛容な精神はジャマイカの紋章にも「 Out of Many, One People」(多くの人種から一つの国民に)として刻まれています。

・国土
 ジャマイカはカリブ海の大アンティル諸島で3番目に大きく秋田県ほどの大きさの島国です。北にはキューバ島、北西にはハイチとドミニカ共和国のあるイスパニョーラ島があります。

 島は熱帯の豊かな森に覆われ島の東部には国内最高峰のブルー・マウンテン峰(2,256m)を擁しコーヒーの産地としても知られるブルーマウンテン山脈がそびえ、北西部にはコクピット・カントリーとよばれるカルスト地形(石灰岩)が広がっています。ブルーマウンテン山脈の山麓からは伏流水が湧き出て、いくつもの川や滝を作り、先住民の言葉で「森と泉の島」(Xaymaca:ザマイカ)と言われるとおり美しい景観を作り出しています。動植物も多様性に富み、固有種も棲息しています。なかでもスワローテールハミングバードはジャマイカだけに生息し国鳥として愛されています。

 また、ブルーマウンテン山脈は、隣接したジョン・クロウ・マウンテンとともにブルー・アンド・ジョン・クロウ・マウンテンズ国立公園に指定されています。同公園は貴重な動植物が生息していることと、植民地時代には逃亡奴隷であるマルーンが独自のコミュニティを形成し、自由を手にするために戦った地でもあることから2015年にユネスコの世界複合遺産として登録されています。

・気候
 気候は熱帯性ですが、大西洋から一年を通じて北東貿易風が吹くため、海岸平野では平均27℃と比較的過ごしやすくなっています。降水量は貿易風の風下に当たる東部で多く、なかでもブルーマウンテン山脈は湿った風が斜面にぶつかることで山麓に年間5600㎜もの雨を降らせます。季節は雨期(5~10月)と乾期(12~3月)があり、雨期には午後に激しいスコールを降らせます。6月からはカリブ海からハリケーンが来襲するようになり、これまで幾度となく大きな被害をもたらしています。

・ジャマイカコーヒーの歴史
 ジャマイカでのコーヒー栽培は、イギリス領ジャマイカの知事を務めたこともあるニコラス・ローズが1728~30年頃にフランス領マルティニーク島から数本のティピカ種の苗木を持ち込み、キングストン北部の丘陵地帯(セント・アンドリュー教区テンプルホール)に植たことに始まります。

 当初は生産量は少なかったものの、1791年に海峡を隔てたハイチ(当時世界最大の生産国だった)で革命が起こると、ジャマイカ島にも難民が流入し、彼らによって高い栽培技術がもたらされコーヒー生産量は急速に拡大していきました。奴隷を労働力としたプランテーションが多数建設され、栽培地域もセント・アンドリューから徐々にブルーマウンテン山脈一帯のより高い丘陵地帯へと広がっていきました。1800年には686のプランテーションで栽培され、1814年の輸出量は約1万5000トンにも上りました。

 しかし、19世紀中頃になるとジャマイカでのコーヒー産業に暗雲が立ちこめます。1807年にイギリス本国で奴隷貿易が廃止となり1833年に奴隷制度そのものが廃止されるとジャマイカでも1838年に奴隷が解放されました。彼らが完全な自由を手したことで、プランテーションでは逆に労働力不足に陥りました。さらに、高地にまで農園を拡大したことで雨による土地の浸食がすすみ土地が痩せコーヒーの品質が落ちました。1850年までにプランテーションは186に減り、輸出は1,486トンまで減少しコーヒー産業は衰退していきました。

 ジャマイカのコーヒー生産は19世紀末におよそ4,500トンにまで回復しましたが、1943年低品質を理由に最大の輸出先であったカナダがコーヒーの購入を取りやめた(第二次世界大戦中は欧州市場の開拓も困難となった)ことを機に、1953年にジャマイカ政府はコーヒーの品質管理を目的にコーヒー産業公社(Coffee Industry Board:CIB)を設立しました。CIBは栽培技術の指導のほか、輸出されるすべての豆の品質を厳しい基準で検査してます。

・ブルーマウンテンコーヒーとは
 ジャマイカ政府はブルーマウンテン山脈周辺のセント・アンドリュー、セント・トーマス、ポートランド、セント・メアリーの4つの行政区にまたがる標高800m〜1,200mのエリアを「ブルーマウンテンエリア」に指定し、コーヒー産業公社(Coffee Industry Board:CIB)にこのエリアで収穫されたコーヒーを検査させています。この厳しい検査に合格した豆だけが「ブルーマウンテン」のブランドを名乗ることができる仕組みになっています。

 ブルーマウンテンコーヒーは、フランスのワインやチーズなどに与えられるアペラシオン・ドリジーヌ・コントロレ(原産地呼称統制:AOC)認証に似た制度で、コーヒーとしては世界で初めて特定地域のブランディングに成功しています。

 ブルーマウンテンエリアはコーヒーを栽培するのには最適な環境が備わっています。土壌は火山灰が堆積した弱酸性で水はけがよく、気温は昼は30℃に達するものの、標高の高さから夜には15℃前後まで下がります。この大きな寒暖差によって実が引き締まり、甘さと酸味を併せ持つ大粒で高品質な豆が実ります。また、貿易風がもたらす湿った風が山脈にぶつかることで年間1,500㎜~1,800㎜という豊富な雨量をもたらし、一日に幾度となく「ブルーマウンテンミスト」と呼ばれる濃い霧が発生することで熱帯の強い日差しからコーヒーの木を守り、果実にみずみずしさを与え、実をさらに引き締めます。

 格付はブルーマウンテンエリアで栽培されたコーヒーのなかからスクリーンサイズ(豆の大きさ)によってNo.1~No.3に分けられています。

ブルーマウンテンNo.1・・・・・・スクリーン17(6.8mm)~18(7.2mm)
ブルーマウンテンNo.2・・・・・・スクリーン16(6.4mm)~17(6.8mm)
ブルーマウンテンNo.3・・・・・・スクリーン15(6.0mm)~16(6.4mm)
※このほかに、欠点豆(品質の悪い豆)の混入が2%以内、水分含有量が10%〜11.5%、専門の検査員の味覚鑑定に合格する必要があります。

 また、上記の条件を満たしていても、欠点豆が多いものは「セレクト」、丸豆は「ピーベリー」として選別されます。なかでもピーベリーは収穫量の3%程度ととて希少なものとなっています。

ブルーマウンテンセレクト・・・・・・スクリーン15〜18、欠点豆の混入は4%以内
ピーベリー・・・・・・通常は果実の中に種子が二つ対に入っているが、1つだけのもの。丸豆であるため焙煎も均一にしあがり、酸味も強い。

 一方、ブルーマウンテンエリア外のコーヒーには以下のような格付がなされています。

ハイマウンテン・・・・・・ブルーマウンテンエリア以外の標高1,000m~1,200mの地域で生産されたもの
プライムウォッシュト・・・・・・上記の場所以外で生産されたもの
セレクト(ジャマイカン セレクト)・・・・・・欠点豆が許容範囲内で一定の基準値を超えるもの

・樽詰めされるコーヒー
 生産国から輸出する際、一般的には麻袋に詰められますが、ジャマイカのブルーマウンテンコーヒーは木樽に詰められ輸出されます。対象となるのはブルーマウンテンNo.1 ~No.3、ピーベリー、ハイマウンテンでその数は全体の3割も満たしません。

 樽詰めはイギリス植民地時代の18世紀中頃に、イギリスから小麦などの食料の運搬に用いられた樽を再利用してコーヒーを詰めてたことが始りといわれ、木樽は湿度や温度を一定に保つメリットがあるとされています。

 開封するには釘を一本一本抜くか、ハンマーでたたき割るしかなくとても大変なようです。また、コーヒーを取り出した後の空樽は園芸用としてもインテリアとしても需要があるようです。

・ブルーマウンテンコーヒーは日本人しか飲まない!?
 ブルーマウンテンが日本で初めて輸入されたのは1930年代のことです。ジャマイカはイギリスの植民地でもあったことから、高級イメージを打ち出すために「英国王室御用達」として宣伝され、当時の喫茶店に通う文化人や上流階級の客層の支持を得たそうです。そうして、現在のいわゆる「ブルマン」という高級コーヒーのブランドイメージが定着していきました。

 ジャマイカでは1973年以降経済が低迷し80年代には危機的な状況に陥っていました。そこで、日本が支援をすることになったのですが、支援内容は、ブルーマウンテン北側の地域の農園開発で、道路や公共施設などの建設も併せて実施されました。規模としては83年度予算で59億円でした。農園開発には日本のコーヒーブランドUCCが携わり、日本で初めての直営農園を経営するようになりました。そして、1983年2月にはUCC直営のクレイトン農園が生産するコーヒーが初出荷されました。

 支援計画は88年の大型台風の被害もあり、大幅に遅れることになりましたが、97年には完了し、今ではコーヒーの生産が雇用を創出し、輸出は貴重な外貨獲得の手段になっています。このような事情もあり、ブルーマウンテンコーヒーの輸出先の8割が日本向けであり、世界ではあまり知られていないのが実情です。

 現在のジャマイカ全体のコーヒー生産量は国際連合食糧農業機関(FAO)の2016年の統計で5,987トンとなっており、これは世界46位に相当します。近年のハリケーンやさび病などの影響により生産量は少なくなっており、ますます希少で高額なコーヒーとなっています。それだけに偽物も多く、輸入量の3倍もの量のブルーマウンテンコーヒーが国内に流通しているともいわれています。正真正銘のブルーマウンテンコーヒーを誰もが気軽に飲むことのできる日はまだまだ先になりそうです。

最後までご覧いただきありがとうございました。
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2018/07/21(土) | 産地情報 | トラックバック(-) | コメント(0)

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