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インカの隆盛

インカの隆盛

・高度な文明をもつインカ帝国
 16世紀初頭、コロンブスがアメリカ大陸に「到達」したころ、現在のペルーを含むエクアドル、ボリビア(チチカカ湖周辺)を中心としたアンデス地域には、人口およそ1000万を擁し、すぐれた統治システムと高度な技術を兼ね備えたインカ帝国(正式名称は「4つの地方」を意味するタワンティンスーユ※1)が隆盛を極めていました。
※1.タワンティンスーユ・・・・・・ケチュア語で「タワ」は「4」を、スーユは「部分、地方」を表し、タワンティンスーユで「4つの地方」を意味となる。

 15世紀、小規模なクスコ王国の第9代パチャクティ王(在位 1438 ~ 63 それ以前は伝説上の人物)は、周辺の諸民族を征服し国家の礎を築き、以後、親子3代にわたってアンデス全域に版図を拡大しました。新たに征服した土地にはミティマエスとよばれる労働者や兵士を強制的に移住させ、開墾と同時に反乱を抑制する役割を担いました。広大な領土は、クスコを中心に4つのスーユ(地方)に分け、国内各地を全長40,000㎞にも及ぶインカ道で結び、キープ※2とよばれる紐の結び目を用いて人口や農作物などの様々な数情報を記録し、チャスキ(飛脚)が伝達するという通信網を整え統治していました。また、鉄器、車輪、貨幣、文字をもたないながらも、巨石建築、灌漑、金銀細工、織物などの高度な技術ももっていました。
※2.キープ・・・・・・情報は10 進法で記録され、ゼロの概念もあった。作製と解読をおこなう専門の役人がいた。

 パチャクティは征服した諸民族に支配体制の正当性と権威を示すため、これまでアンデス地域で古くから信仰されてきた創造神ビラコチャや「ワカ※3」信仰を再編成し、自身を太陽神(インティ)の子として頂点に位置づけ、クスコのコリカンチャをはじめとした太陽神殿を各地に建設し崇拝させました。太陽神殿では6月の冬至(北半球の夏至にあたる日)にはインティ・ライミ(太陽の祭り)が行なわれ、王は太陽神にトウモロコシから造られるチチャ酒※4を捧げました。また、トウモロコシはインカの人々にとって特別な作物で、宗教的な必要性から、帝国成立とともにいち早く灌漑設備が発達し、雨の少ないアンデス高地の急斜面において階段耕地による本格栽培が行なわれていました。
※3.ワカ・・・・・・天体、山、泉、あるいは雷など自然界に畏敬の念を抱き神聖なものとして崇拝した。日本の「八百万の神」信仰に似ている。
※4.チチャ酒・・・・・・神聖なものとして「太陽の処女たち」によって造られ、祭祀や儀式に用いられたほか、兵士や農民にも振る舞われ、人々の支持を得る役割もあった。
 
 経済面では貨幣を用いた市場での取引ではなく、国家統制のもとに生産された農作物や生活物資を徴収し、労働や兵役の対価として再配分される仕組みで国家と農民は互恵関係で結ばれていました。また、飢饉や社会弱者のための生活保障もありました。このほかにも、ミタ制と呼ばれる数ヶ月の交代制で土木や建設労働にあたる強制労働制度があり、この制度はスペインによる植民地統治でもそのまま引き継がれ、特にポトシ銀山では過酷な労働に従事させられ先住民社会の崩壊の一因となりました。

・インカの受難
 上述のように高度な文明を誇っていたインカ帝国でしたが、1520年代になるとスペイン人コンキスタドール(征服者)が姿を見せるようになり帝国の繁栄に暗雲が漂いはじめます。

 フランシスコ・ピサロはエル・ドラード(黄金郷伝説)を信じ、二度にかけての南米探検(1524~26年)のすえ現在のペルー最北部の町トゥンベスに到達しました。この町の発展した様子や大きな神殿をみたピサロは、この地に金銀の溢れる豊かな国があることを確信し、一旦スペイン国王から征服の許可をもらうため帰国の途につきます。

 一方その頃、インカ帝国ではスペイン人の持ち込んだ天然痘※1がスペイン人との接触よりもいち早く猛威を振るっていました。当時、現在のコロンビア南部へ遠征中だったインカ皇帝ワイナ・カパックと皇太子ニナン・クヨチをはじめ帝国の重臣たちはスペイン人と接触する前にこの伝染病によって命を奪われ、正当な後継者を失った帝国は異母兄弟であるワスカルとアタワルパの二人の王子による内戦へと発展していました。
※1.天然痘・・・・・・コロンブスが新大陸に到達した際に持ち込まれた伝染病には天然痘のほか麻疹(はしか)、チフス、インフルエンザなどがある。未知の病に免疫をもたない南北アメリカ先住民の間で急速に蔓延しその数を激減させ、先のアステカ文明と同様に帝国滅亡の主因となった。

 1532年、内戦はアタワルパがワスカルを捕らえ勝利しまが、クスコへの帰路の途中、ピサロが168人のわずかな手勢とともに再来しました。アタワルパは、スペイン人上陸の知らせを受けたとき、スペイン人の容姿や海からやってきたことに創造神ビラコチャ伝説※2との類似点をみて(生け贄・奴隷にするのが目的だったとする考察もあります)、カハマルカで8万の軍勢を率いてピサロとの会見に臨むことになります。
※2.ビラコチャ伝説・・・・・・伝説は地域により様々であるが、代表的なものに容姿は色白であご鬚をたくわえ大柄な男性で、チチカカ湖から現れ、太陽、月、星、人間を作ったのち海の泡となって消えたという伝説がある。

 この会見の席でピサロはアタワルパを捕縛することに成功します。当時の記録では、神父がキリスト教徒への改宗を要求し教義をを説くため聖書を手渡すと、文字の読めないアタワルパが聖書を放り投げました。これを口実にあらかじめ広場に潜ませておいた兵士が合図とともに一斉に攻撃し、不意を突かれ、初めて目にする銃や騎馬に慌てふためいたアタワルパ軍はまともな抵抗ができずにわずかな時間で数千人(30分あまりで8000人とも)が虐殺され、アタワルパは輿から引きずり下ろされたと伝えられています。

 カハマルカで幽閉の身となったアタワルパは、自身が幽閉されている部屋を満たすほどの金銀財宝を身代金(現在の価値にすると約120億円の価値)として差し出すものの、インカの反乱を恐れたピサロは彼を釈放せず、証拠はないものの兄ワスカル暗殺の罪を着せて1533年に処刑します。刑は当初は火刑を宣告されますが、アタワルパは死後の復活を信じていたことからキリスト教へ改宗し、フランシスコ・アタワルパという洗礼名を与えられ、絞首刑に処せられました。このアタワルパがインカ帝国の実質的な権力と権威をもった最後の皇帝となりました。

 インカの皇帝を処刑したものの、各地の残存勢力が依然として脅威となっていたため、ピサロは傀儡の皇帝を立て、その権威を利用しようと考えました。激しい抵抗をなんとか退けながら1533年にインカ帝国の首都であるクスコを占領し、1535年には補給のしやすさから太平洋沿岸にリマ市※3を建設します。
※.3リマ市・・・・・・当初はシウダー・デ・ロス・レイェス(諸王の都)」と名付けられた。リマはリマック川に由来。インカ帝国滅亡後は、植民地時代から現在に至るまでペールーの政治、経済、文化の中心となっていく。

 スペイン人は征服過程で各地で略奪を繰り返し、神殿や王宮などのインカにとって重要な建物も次々に破壊しました。こうした暴挙に対し、傀儡の皇帝もスペイン人同士の不和を利用しようとしていたことから両者の対立はしだいに深まり、皇帝は隙を見てクスコ北方のビルカバンバへと逃れます。その後36年ほど抵抗は続きましたが、激しい攻防によって多くの先住民も犠牲になり、1572年に皇帝トゥパック・アマルが処刑されたことで、名実ともにインカの歴史は幕を閉じました。

 その後のインカの人々はスペインによる植民地支配に組み込まれていきますが、たび重なる伝染病の流行や、戦乱、探検での荷担ぎ(手足を鎖でつながれていた)、過酷な労働などによって数を減らし、最盛期には1000万人はいたとされる先住民人口は16世末にはわずか100万人にまで激減したといわれています。

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2018/12/09(日) | 産地情報 | トラックバック(-) | コメント(0)

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